プレーパークは「冒険遊び場」とも呼ばれ、土・水・火・木など様々な要素がある空間です。 ここでは子どもたちの好奇心や欲求を大切にし、やりたいことができる限り実現できるように運営しています。

プレーパークには禁止事項の看板は立っていません。禁止事項ばかりだと楽しい遊びができないからです。かわりに「自分の責任で自由に遊ぶ」というモットーが掲げられています。

自由な遊びを通してありのままの自分を出せる場所にするには、単にスペースがあるだけではなく、約束せずに遊べる仲間がいること、そしてある程度大人が見守ることが大切ではないかと私たちは考えています。

(特定非営利活動法人日本冒険遊び場づくり協会 日本の冒険遊び場の歴史より、以下引用)

日本の冒険遊び場の歴史

日本の冒険遊び場が生まれたのは、当時世田谷区経堂に住んでいた大村虔一・璋子夫婦の「わが子の遊び環境は自分たちの子ども時代とは違っている。わが子にもあの遊びの世界を体験をさせてあげたい」という想いからでした。

都市計画の仕事をしていた虔一氏は1970年、海外視察旅行の中でLady Allen of Hurtwood著『PLANNING FOR PLAY』という本に出会いました。

この本には、子ども達が自分たちで木材を使って基地を築き、動物小屋を作ってはその世話をし、大きな水溜りにつかり、火をたいてパンを焼く。欧州の冒険遊び場でのそうした子どもたちの喜喜とした姿が数多く収録されていました。

その後、夫妻は鹿島出版会からの依頼でこの本を翻訳をすることとなり、1973年に『都市の遊び場』として出版されました。

本は予想以上の反響を受け、大村夫妻は実際に本で紹介されていたスウェーデン、イギリス、デンマーク、スイス、オランダの遊び場を訪ねました。

帰国後、夫妻は欧州で撮ってきたスライドを地域の人達に見せました。

夫妻と同じく戦後貧しい中で遊びの世界を満喫して育った地域の人たちは、スライドを見て

「自分たちもこんな遊び場をつくって子ども達に楽しい体験をさせよう。」

とボランティア活動団体『あそぼう会』を立ち上げ、地域住民による空き地を借用しての冒険遊び場を始めました。

1975年7~9月 経堂こども天国75

1976年7~9月 経堂こども天国76

1977年7月~1978年9月 桜ヶ丘冒険遊び場

そして1979年、行政と市民による協働運営で世田谷区の国際児童年記念事業として日本初の常設の冒険遊び場「羽根木プレーパーク」が誕生しました。

 

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