プレーパークは「冒険遊び場」とも呼ばれ、土・水・火・木など様々な要素がある空間です。 ここでは子どもたちの好奇心や欲求を大切にし、やりたいことができる限り実現できるように運営しています。

プレーパークには禁止事項の看板は立っていません。禁止事項ばかりだと楽しい遊びができないからです。かわりに「自分の責任で自由に遊ぶ」というモットーが掲げられています。

自由な遊びを通してありのままの自分を出せる場所にするには、単にスペースがあるだけではなく、約束せずに遊べる仲間がいること、そしてある程度大人が見守ることが大切ではないかと私たちは考えています。

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「冒険遊び場で育つ生きる力~遊びのちからと居場所のちから~

池袋本町プレーパーク/NPO法人豊島WAKUAWKUネットワーク代表 栗林知絵子より

みなさんの宝物はなんでしょうか?小さいころの思い出、心の宝物は沢山あるのではないでしょうか。

新潟の雪国で育った私は、雪山で遊び、防寒着や長靴の中がびしょびしょになっても夢中で遊んだこと、泥んこの水たまりを何度も自転車で往復して遊んだことなど、日々の遊びが宝物です。寒いことも、泥だらけでも気にならず、無意識に季節を感じ、来る日も来る日も外で遊びました。

家に居てもつまらなかったし、外にはいつも一緒に遊ぶ相手がいて、子ども主体の空間が、町のあちこちにありました。

私の住む東京都豊島区は、23区で公園と緑が最も少ない区です。

子どもにも、心に宝物をたくさん残してあげたいし、緑や土が少ない環境ならば、子どもが外で遊べる空間を、おとなは創る義務があると思っていました。

そこで9年前から池袋で、冒険遊び場(プレーパーク)づくりに関わりました。

冒険遊び場(プレーパーク)とは「自分の責任で自由に遊ぶ」という看板を掲げ、既存の遊具は無く、例えると「ドラえもん」に出てくる空地のような場所です。

あるのは土や水や火、そして木(生きてる木と材木)、葉、虫、それから自然の素材で遊びをつくり出す道具、例えばロープや木工道具、ホースにバケツにスコップなどです。

子どもがおもしろい遊びを思いついたり、もっとおもしろくなるように工夫したり、豊かな発想と感性を育む環境が、遊び場にはちりばめられています。

ひたすら遊ぶことを通して子どもは生きてくためのさまざまな力を身につけています。 協調力、発想力、挑戦力、集中力、持続力、忍耐力、そして危険を回避する能力など、子どものときに自ら習得しておくべく能力です。 例えば土山に水をためて作るダム遊びでは、泥んこになって夢中でスコップで水路を伸ばし、泥を集めて堤を築くのですが、土山の高低差もあり、水の勢いによって水が濁ったり、湧水のように濁らず静かに流れたり。

また、ブロックでかまどをつくり、木を集めて火をつけて。それからお玉で作るべっ甲飴は火加減、水加減次第で水あめにしかなりません。失敗した水飴をぺろぺろなめて、顔をススで黒くしながらべっ甲飴に再挑戦。

プレーパークは、失敗してもだれも何も言わないところです。

失敗しながら、年上の仲間のやり方を観よう見まねで気が済むまで挑戦できるところです。ひとりじゃできない遊びが、異年齢の子どもが集まるとすごい遊びに発展し、その光景をおとなが見て感心するところです。

子どもの五感だけでなく、第6感、7感、8感も育んでいます。

日本では1975年に東京世田谷で「冒険遊び場」の活動ははじまりました。現在、NPO法人「日本冒険遊び場づくり協会」に登録している団体は全国に270か所以上、東京都内でも50か所以上あります。

世田谷区の羽根木プレーパーク初代プレーリーダーで、現在大正大学特命教授の天野先生のことばをお借りすれば、子どもは悪(AKU)。

つまり、子どもは本来A=危なくて、K=汚くて、U=うるさい存在で、おとなが眉をひそめるような言動をするのが当たり前の姿だとおっしゃいます。昨今の社会状況では子どもが本来の姿AKUで遊べる場はあるのでしょうか?

冒険遊び場は、先生でもない、親でもないプレーリーダーというおとなが常駐していることで、子どものAKUを見守り、存分に発揮させることができるのです。

プレーリーダーは、子どもと対等な関係です。 主な仕事は地域の方をはじめおとなたちに遊びの理解を促し、子どもが主体的に遊べる環境づくり、道具類の管理、大きな事故や怪我の危険を取り除くことです。

近年では「プレーリーダー」という専門の訓練を受けたリーダーが常駐している遊び場も増えつつありますが、池袋本町のプレーパークでは、学生や社会人など様々な方がボランティアとして関わっています。

大学でも専門職として「プレイワーク」を学ぶ学生が増えていますが、プレーリーダーは子どもを育てるおとなのあるべき姿勢だと思っています。

私はプレーパークの現場を通じて、社会問題も見えてきました。子どもの格差社会です。小さいころから外遊びとは無縁で、学習塾やおけいこに追われる子ども。学校の物差しで比較され、否定的な子ども。複雑な家庭環境や、いじめ、不登校で、生きづらい子ども。

現場では子どもひとりひとりの生活背景、生い立ち、性格が違うように、問題も様々です。 プレーリーダーは、AKUの子どもを受け入れ、ガチで一緒に遊び、子どもの成長に寄り添うことでしかできないのですが、ゆっくり流れる時間の中で、じっくりと子どもの成長を見守ることができます。

高い木に登り、プレーリーダーと二人きりになった時、子どもが辛いことをぽつりと打ち明けることがあります。それは時間をかけて信頼関係が築かれているからでしょう。

プレーパークは子どもと対等なおとなが、子ども自身を認めてくれる心地よい居場所のちからも担い、子どもの自尊心も育む場になっています。外遊びを通して子どもが地域の中で、自らゆっくりと育った経験が、私達から子どもへ、そして子どもから未来へ繋がってほしいと思います。



(特定非営利活動法人日本冒険遊び場づくり協会 日本の冒険遊び場の歴史より、以下引用)

日本の冒険遊び場の歴史

日本の冒険遊び場が生まれたのは、当時世田谷区経堂に住んでいた大村虔一・璋子夫婦の「わが子の遊び環境は自分たちの子ども時代とは違っている。わが子にもあの遊びの世界を体験をさせてあげたい」という想いからでした。

都市計画の仕事をしていた虔一氏は1970年、海外視察旅行の中でLady Allen of Hurtwood著『PLANNING FOR PLAY』という本に出会いました。

この本には、子ども達が自分たちで木材を使って基地を築き、動物小屋を作ってはその世話をし、大きな水溜りにつかり、火をたいてパンを焼く。欧州の冒険遊び場でのそうした子どもたちの喜喜とした姿が数多く収録されていました。

その後、夫妻は鹿島出版会からの依頼でこの本を翻訳をすることとなり、1973年に『都市の遊び場』として出版されました。

本は予想以上の反響を受け、大村夫妻は実際に本で紹介されていたスウェーデン、イギリス、デンマーク、スイス、オランダの遊び場を訪ねました。

帰国後、夫妻は欧州で撮ってきたスライドを地域の人達に見せました。

夫妻と同じく戦後貧しい中で遊びの世界を満喫して育った地域の人たちは、スライドを見て

「自分たちもこんな遊び場をつくって子ども達に楽しい体験をさせよう。」

とボランティア活動団体『あそぼう会』を立ち上げ、地域住民による空き地を借用しての冒険遊び場を始めました。

1975年7~9月 経堂こども天国75

1976年7~9月 経堂こども天国76

1977年7月~1978年9月 桜ヶ丘冒険遊び場

そして1979年、行政と市民による協働運営で世田谷区の国際児童年記念事業として日本初の常設の冒険遊び場「羽根木プレーパーク」が誕生しました。

 

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